死の逃避行・満蒙開拓団の悲劇|被爆二世のアラフィフミニマリスト【広島】【シベリア抑留】【2019夏】
わたしの父は
原爆被爆者
祖父母は
満蒙開拓団・シベリア抑留者です
わたしは
被爆二世です
朝
8時15分
今年も黙祷できました
『黒い雨』
ほぼ読み終わってます
昔
ある古いアルバムに
満蒙開拓団の写真が一枚だけありました
祖母に抱かれて写っている
幼い伯母(2歳位?)がいました
1cm四方のその部分だけ
色褪せて、薄くなっていました
胸を衝かれました
何十年もの間
祖父母は我が子を愛おしむ様に
触れてきたのでしょう
満蒙開拓団(まんもうかいたくだん)/満蒙開拓移民(まんもうかいたくいみん
総数は27万人とも、32万人ともされる。1945年5月、軍は満州の4分の3の放棄を決定したが、開拓団には秘密にした。8月、軍は満州全土放棄も可とし、開拓団の死の逃避行がはじまった。ソ連の参戦で国境地帯に取り残され、日本に帰国できたのは約11万人。引き揚げの途中で多くの死者、行方不明者を出し、無事に帰国できた開拓団はなかった。ソ連兵に捕らえられシベリアへ送られた入植者は、シベリア抑留者となり帰国は更に困難を極めた。
戦争未経験者のわたしですが
兵隊になり敵を殺しに行くことや
敵に殺されることだけが
怖いのではないと思います
満蒙開拓団、死の逃避行 棄民の悲劇
逃避行中
足手まといで泣き声が敵に見つかるからと
5歳以下の子どもの殺害が決定
実行されました
8歳以下も同様になり
伯母はその時に亡くなりました
親が子供を殺す地獄絵図
祖母は一時気が狂いました
祖父は
「奥さんを殺したらどうか」
と言われたそうです
その後
祖父母はソ連兵の捕虜となり
シベリア抑留者となり
労働に駆り出されました
シベリア抑留(シベリアよくりゅう)
第二次世界大戦の終戦後、捕虜となった日本人が、ソビエト連邦(ソ連)によってシベリア等へ移送隔離され、長期抑留生活と奴隷的強制労働をさせられた。ソ連によって戦後抑留された日本人は約57万5千人。厳寒環境下で満足な食事や休養も与えられず、苛烈な労働を強要させられ、約5万5千人が死亡した。
戦争の恐ろしさとは
平時、親は大抵子どもを守ると思います。
ところが、戦時になると、
上記のようなことが起こりました。
ニュース等では取り上げられないようですが、
味方を殺したり、味方の犠牲を強いてくる。
親が子を殺す地獄。
平時の常識が非常識になる、
道徳も倫理も通用しなくなる。
敵を殺したり敵を殺されたりするだけではなく、
人が人でなくなることをするのが、
戦時下の恐ろしいことではないでしょうか。
戦争をすると、
自分の子どもや孫を自分の手で
殺さなければならない可能性もあると思います。
戦争をなぜしないのかと言った
若い議員もいたようですが、
自分の家族を殺す可能性を
考えておられるのでしょうか・・・
8月は
二人の伯母の命日があり
毎年
静かな真摯な気持ちで
生まれる前の時代に
思いを馳せます
生まれた時期が
数十年早かったら
わたしが
被爆者だったかもしれませんし
満蒙開拓団だったかもしれません
他人事 昔のこと
とは思えないのです
今 自分が
生きているのはたまたま
だと思うのです
たまたま
おいしいものを食べられる時代に
チョコレートを食べられる国に立場に
生まれただけなのです
ありがたいな、と
思います
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